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2020.08.12
見えないものに対する敬意と畏怖
今年の夏は本当に暑いですね。
天気予報で最高気温38度の地域があったり、ゲリラ豪雨、突風、急激な天候の変化に、
今年はコロナ禍で、マスクの着用と、色々大変な夏になりました。
先日、京都で五山の送り火に、何者かがライトで大文字を映し出したと、報道でありました。
コロナ禍で、今年は五山の送り火は中止になりましたが、本当にコロナで季節感もなくなりました。
お盆の故郷への帰省も、自粛のムードがありますね。
ご先祖に日頃の感謝と、ご報告をする日本の伝統的な行事です。
『千の風になって』という曲が流行り、また、後継者がいないということで、
お墓の需要も減ってきているようです。
先日、僕も先祖のお墓の清掃とお参りをして来ました。
これこそが、見えないもの(ご先祖には失礼な表現ですが)に対する敬意と思います。
神社に行っても、ご神木などのシンボルはありますが、日本は自然崇拝、八百万の神々といった
様々なものに魂が宿るという信仰があります。
富士山が中心的なものでしょう。
目に見えないけど、感じる、手を合わせて拝む、これも見えないものへの敬意と思います。
この目に見えないものへの敬意の念が、日本の伝統文化の中心にある様に思います。
最近は、何でも可視化され、自分の頭でイメージしなくても、誰かが作り上げたものに
イメージが先行されているよう思います。
見えないものに対する畏怖は、コロナウイルスに対するものでは、ありません。
『誰も見ていなくても、お天道様がみている』
時代劇の世界かもしれませんが、この感覚は、とても大切だと僕は思います。
これこそが、見えないものに対する畏怖です。
見えない何かがみているから、こんな事は止めておこう、という道徳心に繋がると思います。
これが、外国人から見て、日本の街は綺麗だといわれる由縁かもしれません。
街を掃除しても、誰に褒められるわけでもなく、それでも掃除をする。
物凄く僕が好きな日本の文化の一つです。
見えないものにこそ、価値がある。
それは、見えないものに対する敬意と畏怖の念からくる、日本の素晴らしい文化の源に思います。